よく分かりません’s diary

セカンドキャリアを探しています

とくべチュ、して(I love youは特別に足りうるのか?)

イコラブの『とくべチュ、して。』という曲がレコ大で作詞賞を受賞していました。

前提として僕はこの曲が好きです。
ですが、この曲は重度のメンヘラを患っています。
これを聴くと、顔が可愛く、甘やかれて生きてきた彼女に「〇〇君は、わかってくれるよね?」と歪な愛を強制された気がして胸がキュッとなります。
話し合っても埋まることのない断絶を見て消沈しながらも、圧倒的な可愛さの前に力無く微笑むことしかできなくなってしまうのです。

I love you じゃ足りない
一番大事がいい
君が作るオリジナルの
特別、チューして
=LOVE とくべちゅして

 

う~ だって
今までの人と 同じはいらないんです
ねえ もっと give me more love
私のため 生きてほしいんです


こんなに可愛い曲調で、可愛い顔面のメンバーに、これを歌わせるの、鮮烈を超えて暴力だと思います。

I love you じゃ足りない?馬鹿なこと言うな。I love youで足りるだろ。
Loveって、それだけで十分特別じゃないですか?
どうして今までで一番でないと意味がないなんて悲しいことを言うんだろう。
そもそも「一番」と順番をつけるのもあまりわかりません。
誰かのことを「好きである」と断言できることなんて、ほとんどなくて、奇跡みたいなものです。
それなのにただのLoveじゃ満足できず、「一番」とか「一生」とかの特殊なエンチャントが付与された史上最強のLoveを受け取らないと不安なのでしょうか。
修飾されていないただのLoveじゃ、弱いのでしょうか。
そんなに強い装備を付けないと戦えないのなら、そもそもLoveの価値ってなんなんでしょうか。僕はただのLoveだけで十分に特別だと思うよ。

確かに、誰かを好きであるのだ!と恋に燃えている時は、その人が特別で、一番で、それが世界の全てのように感じる程に支配的なのかもしれないけれど、あの現象はLoveそのものってより、Loveの初期症状だと思うのです。一時的な副反応による高熱。

好きなところ、優しいところ。

嫌いなところも、優しいところ。

 

この歌詞は「あなたが優しいところは大好きだけれど、他の人にその優しさを向けるのは嫌です。私だけにしてよ。」という可愛いワガママだと思うんだけど、好きな人が、他の人に冷たくしてたら普通に嫌だろう。
最初の初期症状で出てしまった高熱(独占欲)と、その人へのLoveを混ぜこぜにしてしまったら、その人のことが好きではなくなってしまうかもしれないし、もしそうなったら、それはとても悲しいことです。

(ここの歌詞が「あなたの優しいところは大好き。でもその優しさ故、自分を犠牲にしたりすることは私は耐えられないよ。嫌いだ。」って意味なら、Loveを感じて本当にいいなと思うのですが、きっと違う)

ショートケーキ イチゴみたいに 座ってもいい?
赤く甘い恋だもん 誰かにあげた
「大好き」も 返してもらって
全部私にちょーだい、もっと!

 

ショートケーキのイチゴみたいに一番目立って、その人をその人たらしめる存在になりたいって気持ちはわかるよ。
でもショートケーキなんて勝手に決めつけるなよ。
僕はモンブランで、上に乗っているのは栗かもしれない。
もしかしたら、チョコレートケーキでそもそも僕の上に乗っているものなんてないかもしれない。
もっと言えば僕は三種のチーズ牛丼特盛の温玉付きなんだよ。
イチゴとか乗っけられたらこの世の終わりだから!!


とにかく、この曲はめちゃくちゃ可愛いけれど、可愛さを凶器にしてチー牛を支配する曲です。そういった点まで含めて作詞賞を貰ったのかどうか、僕には分かりません。

この曲だけじゃなくて、「絶対アイドル辞めないで」という曲も、チー牛の俺たちの気持ちをアイドルに代弁させているメタ的な構造がとってもグロテスクで大好きなんだけど、それはまた今度。

1月1日からオレはなんでこれを書いたんだろう。抱負とか書けばいいのに。
抱負、イコラブのライブに一回行く

もう少しで辿り着ける気がする オレの魂の本質

 

朝起きたら、自分の魂の形が掴めそうになったので備忘録。雑なので読みづらかったらごめんなさい。

 

 

 

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小さい頃からあらゆる物事に対して、心の隅っこで距離を置いて考えてしまう癖があった。

「これって、なんの意味があるの?」 

「いつか死ぬんだからどうでも良いのに」

と。

その冷えた自分は大人になるとともに、どんどん増大している気がする。

 

学生の頃は何の意味もない、そこにしかない熱に身を委ねていることが本当に楽しかった。

だから、そういった思考が入り込む隙はあまりなかった。

でも、大人になると容赦なく現実が意味を要求してくる。

 

「お金を稼ぎたいから」

「モテたいから」

「世間が許さないから」

「偉くなりたいから」

 

色々答えは思い浮かぶし、もちろんそのどれもが自分に対して、快感や安心を与えてくれて、生きる意味になりうることは表面では理解できる。

 

でも、それでも「どうしてそれが欲しいのか」を繰り返していくと最終的には「達成したところでだから何なの?」に到達してしまう。

昔のように自分の全てを熱に委ねられれば良いのにそんなことは現実が許してくれない。

 

この冷めたスタンスが良くない事は直感しているし、自分でもマジでダサいとも思う。

でも、考えてしまうのだから仕方ない。

 

 

だからこそ、実存主義や超人思想といった、「人生は自身でデザインする事こそが善である」という立場に縋ったり、なにかしらを信仰するポーズをとって、とある段階でそれを答えとして、まだ約分できるのに、そこで敢えて約分をやめる。

 

そんな風に意図的に思想に阿るのは、根本的に真の意味で生きているのかな?という迷いと虚しさは拭えなかったのだけれど、今朝、この迷いと虚しさに対してのひとつの答えを突然に直観した。

 

全てに対して「だから何の意味があるの?死ぬんだからどうでも良くない?」的なニヒリズムを感じてしまうのは「自分が明晰に認識している世界の範囲が狭すぎるから」であると。

 

結局オレは自分の視界に入る範囲や、自分がゆりかごから棺桶に入るまでの時間といった、「自分の感性が捉える時空間」のみを世界であると認識してしまっている。

 

オレが死んだ後も世界は存在するだろうけど、そんな世界は正直興味もないからイメージする気も起きない。だって、死んだら終わりなんだもん。

どこか別の国で戦争が起こっていても心の底から他人事。だってここは日本だし、オレの住む街は平和だし。

 


その一方で!

僕は犬や猫に対して、毎日いい夢を見てほしいし、ご飯を美味しく食べてほしいし、心から幸せに生きてほしいと願っているし、必要であれば、あまり損得など考えない。

というか、全てを捨てるだろう。(中学生の頃、台風で氾濫している川に野良猫を助ける為に飛び込んだ。その猫とは3年間共にした。)


この犬や猫を助けたい願いは、合理的な意味とは別の次元にある。

そこに「こいつらの幸せに何の意味があるの?」とかはしょうもない思考は介在しないし、仮に発生したとしても「オレが心からそうしたいから」で一瞬で蹴り飛ばすだろう。

仮にオレが先に死んでもずっと幸せに生きていってほしい。

 

エレンのこと、嫌いにならないでほしい|benjamming

 


でも、犬や猫はおそらく僕より早く死ぬだろう。

だから、僕は僕が死んだ後の世界のことなんてどうでも良いと思ってた。

 


けれど、仮に、

そういった存在が自分の死後にも存在し続けるとしたら?

世界のどこかでそういった存在が今も生きているのだとしたら?

 

きっとオレは初めて自分が感知できる時空間以外の世界をはっきりイメージし始めるのだと思う。

そして、時間という概念から切り離された永遠と、空間という概念から解き放たれた遍在といった思考の枠組みを獲得できたならば、

時間と空間から解放されたのであれば、

初めて、死や場所などの有限性を理由とした「どうでもよさ」から解放され、真の意味で明晰に生きられるんじゃないかな、と思う。

 

 

この自分という存在を無限に拡張しうるものでまず思い浮かぶのは、生涯のパートナーや子供の存在だけれども、人によっては、創作であったり、平和であったり、博愛であったり、継承であったりと様々だと思う。

思い返してみれば、今オレがやりたい事や、就きたい職業って、これをよすがにしていたのかは分からないけど、「世界を制限する時間や空間といった概念」を取り払い、自己を無限に発散する方向に働くものが多いように思う。

この文章をわざわざはてなブログに書くのもその営みの一種なのかもしれない。

 

おそらくこの考えは半年後にはまた変わっている気もするけども、現時点では自分の魂の形を2割程度は掴めている気がする。

 

なんか、こういった、垂れ流し系の文章書きたい欲が強い時期なので、ここまで読んだ人いたら何かお題ください。

漫画の読書感想文書け。とかでもいいです。

てかそろそろ2025に読んだ本のまとめでも書くかあ